昭和52年11月11日 朝の御理解



 御理解 第57節
 「金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神を杖につけば楽じゃ。」

 神様を信じて縋る。なかなか難しいことです。信じてと言う事が難しいです。そこで、このご理解を頂きますと、「神を杖につけば楽じゃ」と教えてある。ですから神様にこんなに一生懸命でお願いをしております。お縋りをしておりますと、また自分もそう思うております。ところが自分の心の中には楽ではない。不安である。心配が次から次ぎと雲の様に湧いてくる。ですから私が神様を信じております。と言う事の言わばバロメータの様なもんです。心の中に安心がない。心の中に確信がない。
 なるほど願っております。縋っておりますけれども。心の中に穏やかでない、いわゆる平静心が保つことが出来ていないとするならば、「神を杖につけば楽じゃ」と仰るのですから。私がいかに神様を杖についておる、一心に縋っておると言うても、ここは信じて縋ると言う事でなければ安心は生まれて来ない。ためにはやはり神様を、神様の働きと言うか、神様の思いと言うか、それがこちらに確信を持ってそれが信じれれると言う所から生まれて来るのは「楽じゃ」という心。
 だから私共の信心を厳密に言うとです。「神様を信じております。縋っております」と、言うけれども思うとるけれども。さあ何かに直面すると、心に不安心に心配。そこで竹に縋ったり金に縋ったりすることになるのです。勿論ですから竹に縋るにしても、金に縋るにしても。まあ言うならば人に縋ると言う事でもです。薬に頼ると言う事でもです。やはり願わなければおられないと言う事になって来るのです。
 私はもういつも思うんですけど、毎朝皆さんにこうやってお話しを聞いて貰う。取分け月例祭の時のお話を皆さんに聞いて貰う時なんかは、お説教台にもう大体立つまで何をどう話そうというものが全然ないです。もうこれは言うならば、もうこんな不安な事はないです。それはまあ例えば話しの天才と言われる様な人がいます。いろいろ話しの稽古をさしてもろうて、非常に知識も豊ですし、その話術というものを心得ておる。だから何時でも何処でもどんな話しでも、さらさらとと出来る人もあります。
 やはり稽古。所がそういう話では助からんから不思議です。これは私の知った先生に、もうそれこそ二時間でも三時間でも話さすんなら、もう実に素晴らしいしかも味わいのある。泣かせたり笑わせたしてお話しをなさる。いわゆる説教先生ですね。まあ説教坊さんとも言います。もう実にまあ道理に合うた話しであり、真からお話しが上手。所が不思議にそれでは助からんから不思議です。ですから私の話はいつの場合であっても、いわゆる神様にさせて頂いておる。いやさせて頂くんだという確信なんです。
 どんなに例えばお月例祭なんかにあれだけ沢山の人がお説教を頂きます。ですから折角頂こうとしておる人達にです。助かりもなからなければ、喜びも与えられないようなお話では合い済まんと思うのです。というてなら大坪総一朗が出てきたんではいよいよ私の話しになってしまいますから。神様のお心を伝える、おかげを頂くこつあいを話す。お徳を受けるためにというお話しになって来ます。それがいつの場合でも神様が言わせて下さるんだなあ、話させて下さるんだなという確信が出来る。
 だからおかげを頂いて段々お説教台の前に立たせて頂くのに、何を話してよいか分らないけれども不安がなくなって来た。私が本に頼るとか学問に頼るとか、と言う事でなくて、木や竹に縋るのじゃない、金に頼るのじゃない。いわゆる神を杖につけば楽じゃという。神様一本に絞り、神様にお縋りするより外に仕方がないと。と言う所までぎりぎりの、私が分からして頂いて見ればです。不安がない心配がない。話させて下さると確信があるから、お説教台の前に立たれる。
 さあ何を話そうか話の材料もない、どげな話しをするかと言うて不安心配があって、そこから例えば生まれてくる話であるならば、私はそれは結局、私が自分の言うなら、我力で我情で話しておると言う事になりますから、それでは助からん。話を聞いて助かる道と。と言う事は話をしてから助かる道と言う事も言えれる。その証拠には話しをさせて頂いた後の、言わば私の心の中の、言うならば何というでしょうか、満足感とはちょっと違いますけれども喜びです。
 あぁよか御理解を頂いた。とまあその日その日に伝えさせて頂いた、有難いと思う言わばおかげを頂かして貰う。これはお話だけの事ではありません。何にもでけんのですから、神様に縋らずにはおられない。勿論お話の場合であってもです。どうぞ神様の言うならば御心を間違いなく、皆んなにも伝えさせて頂かなければならんという願いがもう切実になされる訳です。それを神様のおかげを頂かなければ話される事じゃないなと。甘木の初代が、非常に吉井の教会に御比礼が輝きだした。
 お月例祭のたんびんに、御大祭のたんびんに、親先生がお見えられてお話しをなさったと言う事です。記念祭かなんかで、町の有志の方達に案内状が出してあったから、町長さん始め歴々の方達がそのお祭に参拝しておられた。そこで安武先生今日は今までの話じゃいかん、信心のない一般の者にも聞いてもらわんなん。金光教の信心がこんなに有難いんだと言う事を分かって貰いたいという人間心が出た。そしてお説教台の前に立たれた所が、もうげっそりお話が出なかったというお話を聞いたことがあります。
 甘木の言うなら、ああいう大徳の先生でもそういう人情を使われたことがあって、もうお話しをするのに、自分が話そうとでも思うなら、神様から話させて頂かなければ出来ることじゃないと。でなからなければ、また人も自分も助からんぞと教えられたと言う事を聞いたことがあります。私共もそういうやはり体験を持っております。もう「神様のおかげを頂かなければ」という思いがいよいよ強うなって初めて、神を杖についたことになるのです。「神を杖につけば楽じゃ」という答が出てくる。 そこで楽ではないならば、私はまだ神様一心に縋っているのじゃないな、神様を信じておるのじゃないなと言う事になるのです。
 昨日、一昨日でしたでしょうか。日田の松尾さんがこういうようなお届けをなさいました。「親先生、昨夜はもう本当に恐れ入ったおかげを頂きました。実はお風呂を頂きます時に、お風呂を、言うならお湯を押し頂いて、お風呂を頂きますという御礼を申しながら、本当に世の中にはお風呂に入りたい、何ヵ月も入っとらん、いわゆる病気のためにです。例えば入りたいけれども入られんという人があるのに、私だけじゃない家族中の者がこのお風呂を使わして頂くが、まあ何と有り難いことじゃろうかと思うてお湯を押し頂いた途端に、側にあった石鹸箱に、もうそりゃびっくりするようなおいさみを頂いた」と言うんです。
 私は思うんですけれども、本当に信心が分かると言う事は結局おかげを受けておると言う事を分からなきゃいけんです。おかげで眼が覚めましたことは大変に有り難いことであるし、歩かせて頂くことも、言うなら手足が動くことも、お食事が美味しゅう頂けることも、三度三度に事欠きもせずに衣食住全ての点に、おかげを受けておると言う事にもです。もう本当に食べたいけれども食べられん。歩きたいけれども歩かれん。という人が世間にはどれくらいあるか分からん。
 松尾さんが言う、お風呂を頂かれる時に、「世間にはお風呂に入りたいと思うても、その何ヵ月もお風呂にも入られんような人もあろうが。自分だけではない、家族中の者がこのお風呂を頂かせて頂いておると言う事は何と有難いことだろうか」と、これは実感が湧いて来たわけ。御礼を申し上げる途端に、言うなら神様がね、もう言うならばお芝居ならお芝居を見とってから、もう思わず知らずあのかけ声が出ますね。例えば「成駒屋」とかね、「音羽屋」とかと言う。
 もうあれは、ここんところで声を掛けようなんて思うて出る声じゃないです。そこにそれなら舞台で演技をしておる、言うならば役者の演技の上に一段と冴えが見えてくる。その、そこんところ間髪を入れずです。神様と私共の中に丁度舞台に声を掛けるような、素晴らしい、まあ言うならタイミングとでも申しましょうか。タイミングと言うとちょっと違うかも知れませんけれども、神様が思うてござる。願うてござる。そのことが私共の心から発した時にです。
 それこそ丁々発止(ちょうちょうはっし)と、打つ音が、出る音があの、おいさみだと私は思うです。「氏子の喜び」「神様の願い」それが一つになる。そうしてみると、お風呂だけのことではない、世の中には本当に歩きたい人もあろうけれども、どっこい足が立たんという人もどのくらいあるか分からん。食べたいと思う沢山のお米を倉に積んでおってもです。許されなければ、一粒のご飯が喉を通らん、こさんいう人も世の中には沢山あるかも知れんのに。
 そりゃ難儀はある、様々な痛い痒いもあるけれどもです。それが頂けておると言う事は何と有り難い事であろうか、しかも私だけではない家族中の者が頂けておると言う事は有り難い事であると感じて、御礼を申し上げた時にです。神様との交流があるわけ。ですから何をさせて頂くでも神様との交流を先ず計ってのこと。私が今申します、神様との交流を計っての心の安らぎ心に安心、神様が絶対と感じられる。
 その感じられるその心でね、万事万端が行われ取り進められて行くという生き方が、まあ言うならば、完璧な信心生活と言う事になります。その完璧と言う事は中々もって出来ない。それなら松尾さんでもそのお風呂の時には何か知らん自分の心の中に有り難いものが湧いてきて、そして思わず御礼を言うだけじゃない。家族中の者がこのお風呂を頂かせて頂いておると言う事は何と有難い事だろうかという一つの環境が湧いてくる。お月例祭を仕える。有り難いお祭を頂かせてもらう。
 ただ今から沢山のお参りの人達の一人一人にも分る様な、分からんでも有難いなあと言うもの位は感じて貰えるようなお話しをさせて下さい。と言うて何を話してよいやら分からない。神、まあ言うならば私を通して、私の口を通して出る言葉の一言一言が、神様のお言葉として、私も頂き、聞く人もやはり頂くと言う事になる。甘木の親先生が御結界につかれる。こちらにはいっぱいお参りがあってお話が頂きたいというて、まあ言うなら固唾をのんで待っておる。
 そして御結界につかれる時に、よく洩らされたというお言葉の中にね「さあ御理解頂こうか」と言うて座られたと言う事です。もう安武松太郎の話じゃない。安武松太郎の口をついて出る話しはもう神様の御理解なんだ。だから「さあ今から御理解頂こうか」と自分自身が頂きながら伝えておられるわけ。だから助かったんです。甘木の初代のお話といえば大変上手というお方ではなかったと、私は何回か聞いてそれを思うた。
 けれども神様から聞いておられる、頂いておられるのであるから助かったんですね、これは私もこれはいつものことですけれどもそれを実感いたします。皆さんもご承知のように、私がこれを「今日は御理解何節ば頂こうか」というて、言うのじゃないです。もう本当に若先生が御祈念を神様から御霊様へ移るまでは、お日届けが丁度その時間かかるんです。ですから御霊様へ御礼する間に、教典を開かしてもろうて頂くのですから、もうその、お話の準備をするわけにはいかんのです。
 今日はこげんよか話しばしようと思うとったっちゃ、御理解が全然そこと違うところが出てくるならどうにも出来ないことです。日々がそうなんです。ですから頂く者もやはりその気で頂かなければならんし、伝える者もやはりそうでなからなきゃならん。そして今日は皆さんにですね、「神を杖につけば楽じゃ」と言われるけれども、私共が楽でないならば、まだまだ神を杖についていない。だから安心して、言うならば神を杖につけれる信心が、その前提として出来ておらなければならない。
 ためにはやはり、おかげを知らなければ出来ない。話を聞けば「一切神愛」と頂いておってもです。仲々それが実感として入ってこない。そこで自分の身近な、手近な、本当におかげを頂いておるなと思う事に対してです。心からの御礼が申し上げれる稽古をさして貰わなければいけない。本当に世の中には歩こうとして歩かれず、食べようとして食する事が許されず。もう例を言うならば数限りなくありましょう。それが出来ておると言う事は、私だけではない、家族中がこのお風呂が頂けれると言う事は。
 まあ何と有り難いことだろうかと、御礼を申し上げた時に神様との交流と思われる、それこそ本当にそれはもう、それこそびっくりするようなおいさみだったと言うておられます。だからいつもそういうです。神様との交流を感じて初めて、本当に神様という御方は、なるほど「真に有り難い心がみかげのはじめ」と。信心とは偉くなるためでも賢うなるためでもない。有難うなる稽古だ。
 その稽古を、聞けば聞くほど、分かれば分かるほど、おかげを頂いておる事実が分かれば分かるほど、心から御礼を申し上げなければならないことがいっぱいある。それを私共がうかつにしておる。というような信心ではです。やはりいよいよの時には金に縋らなきゃならない、物に縋らなければ出来ん。とにかく人に縋らなければならないということにもなる。なら金に縋ってはならんと言うのじゃない、人に縋ってはならんと言うのじゃない。それは信心のそれぞれの過程ですから。
 けれども、その事とてもです。縋らずにはおられない、一服の薬を頂かせて頂くでもです。薬が毒になることのないような。注射一本してもらうでも、注射の打ち違いがないようにという、それこそ願いがなされなきゃならない。昨日これも、日田の国師さんがお届けをしておられました。先日から歯が大変悪いから、歯を欠いてもらうために歯医者さんにおいでられた。「今夜は国師さん大抵痛むだろうから、これは痛み止めのお薬だからこれを飲んで休んで下さい」と言うて言われた。
 ところが「先生、私は薬を飲むとは好きませんで頂きません」て言わっしゃった。しかし本当に私は度胸があると思いました。「痛かたっちゃよかなら飲まんでんよかたい」と言わっしゃった。ところが全然痛もうともしなかったと言うんです。神に縋っておると言うことがです。ならまあ大概の人がね、飲まんでんやっぱり下さるならもろうて帰って来るでしょうね。この辺のところがね、言わばもうはっきり金を杖につくのじゃない。木や竹は折れる事実。
 もう神様に縋るより外にないのだという、私は一心からそう言う事も言えるし、またそういうそれこそ鮮やかなおかげにもなって来ると思うんです。だからそういうおかげがです。日々私共の信心生活の上に頂けてくるし、またおかげを現して行くという生き方から、いよいよ本当に、もう神様に縋るより外はなかという絶対のものが生まれてくる。一遍じゃないです。段々段々おかげを頂かしてもろうて、私がお話しさせてもらう時に、神様に話させてもらわなければお話が出来るもんじゃない。
 その証拠に私がいつも思う、みんなが笑うんですけれども、親先生は本当に挨拶が下手ちゅうて、挨拶は本当自分ながら不思議なくらいに下手です。私はこの頃、記念祭の時でもあれだけ言わばたくさんの先生方が私の出てくるのを待って、お食事をご直会頂く前に待ってある。その前に一条のやはりご挨拶をしなきゃならん。これはどこへ行っても先生方はもう、それこそ見事になさるです。ところがあそこへ座った途端に、どげん言うてよいかいっちょも分からん。出て来んの第一。
 それで「どうもすいません、お待たせしました。どうぞ」ちゅうてそれだけ。まちっと、記念祭で言わばその遠方から来た先生方も聞かれる。おかげを頂いてどうとかちっとは挨拶もあるもんと思うとられるじゃろうばってん、まあほんに大坪っちゃ挨拶もしきらんと思いなさったろうと思いますけれども、自分で話そうと思う時にはどっこい出らんです。と言うてそれならお説教台の前に出らせて頂くと私が安心して、神を杖について出よるからね、それこそ自分ながら自分で頂く。
 自分が自分で話したお話しに酔うようなお話しも出来るんです。それはどう言う事かと言うと、神を杖につく安心があるからなんです。これはもうご本部の永井という先生がおられます。大変偉い先生ですが、その合楽で言われるこの五十七節という、いつも「この神を杖につけば楽じゃ」なら神様を頂いとるの、有難いの信じておるのと言うてもです。楽でないならばあなたは信じていないんだ、と極言しておられるが、まさにその通りだと言って学院生に話されたことがあるそうです。
 だからこれは、自分の信心のバロメーターです。こがしこ一生懸命これだけ縋っとる。これだけ頼んどると。だからそれでいて尚且つ安心が生まれないならば、心が乱れるならば、まあだまだ神を杖についていないんだと思うて、本当の神様を求めなければならない。本当に杖になるような神様を頂いた時に初めて生まれるのが楽じゃ。言うならば安心のおかげにもつながることでしょう。
 だから一遍に頂けるとは思われませんけれども、縋っておるものが、神様以外に縋っておるものがあるなら、それを一つ一つ取り外して行く稽古がまた必要であると言う事になります。一遍にしよると外しそこないますからね。一つ一つ外して行くたんびんに、神を信ずる力がそこに生まれて来ると言う事になる。いよいよもって全ての事にです、神を杖につけば楽じゃと言う様な信心をお互い目指させてもろうての、信心の稽古じゃなからなければならんと言う事ですよね。
   どうぞ。